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ジャックスについて
ジャックスは60年代後半に活動した音楽バンドで当時のどのジャンルにも収まらない独自の音楽性を持っていたのだが、当時人気はあまりなく、後に日本のロックの先駆者として評価を受けるようになった。
ジャックスの特徴は若者の心の内面を表現する歌詞と早川の情念的な歌唱、そして木田のジャズ指向な音作りにあるとされていて、当時はグループ・サウンズとフォークソングが若者の間に支持されていて、ジャックスの精神性や思想性のある音楽活動が一般的な支持を受けることはなかった。
プログレッシブ・ロックを思わせるジャックスの楽曲と活動は、フォーク・クルセダーズ、はっぴいえんどと並んで、日本のニューロックの先駆けとして再評価を受け現在での評価は高く、このジャックス再評価の流れは70年代末の第一次インディーズブームから始まった。中でも中心バンドの1つであったザ・スターリンのリーダー遠藤ミチロウは、ジャックスに強く影響を受けたことを何度も語っており、カバー曲も出している。
当時ジャックスはレコードが全て廃盤となっていた上に発売枚数が少なかったため、非常に高額のプレミア付きで取引されており、完全に幻のバンドとなっていた。再発を希望する声は多く届いていたが、代表曲である「からっぽの世界」に自主規制用語にあたる「唖」という言葉が含まれていたため、決して再発されることはなかった。
しかしあまりの再発希望の多さに東芝も重い腰を上げ85年にベスト盤「Legend」を発売。問題となった「からっぽの世界」の収録はされなかったが、幻のバンドのベスト盤ということでかなりの話題になり売れ行きもよく、これにより「Echoes In The Radio」「タクト・リコレクション」「リメインズ」と様々な音源が発掘され発売された。
マニアな人気を誇る60年代最高の伝説のバンドといえるだろう。
ジャッキー吉川とブルーコメッツについて
ジャッキー吉川とブルーコメッツは1960年代に一斉を風靡したグループサウンズのひとつで、1957年に結成されたロックコンボが元となっている。所属芸能事務所は渡辺プロダクション。
ジャッキー吉川とブルーコメッツは尾藤イサオのバックバンドとして活動していた時期があった。尾藤とコンサート開催地に向かったが、尾藤が列車から降り損ね開催が不可能になってしまった。そこで観客に尾藤が来ていないことを説明した所「何か歌ってくれ」と求められたことから本格的なジャッキー吉川とブルーコメッツ独自の活動が始まったとされている。
1966年に発売された青い瞳(英語盤)が10万枚、青い瞳(日本語盤)が50万枚のヒット。
ビートルズの来日時、ジャッキー吉川とブルーコメッツはビートルズとは別のステージでウェルカムビートルズを歌った。
1967年に発売された「ブルーシャトウ」はジャッキー吉川とブルーコメッツ最大の150万枚の大ヒットを記録し、この年の日本レコード大賞で大賞を受賞。
ジャッキー吉川とブルーコメッツは数多のグループサウンズの中で唯一NHKへの出演が許された。
1968年にジャッキー吉川とブルーコメッツはエド・サリヴァン・ショーに出演。このときの経験を元にジャッキー吉川とブルーコメッツの活動を見直し脱グループサウンズ宣言。
同年発売された歌謡曲シングル「さよならのあとで」が大ヒットした後は、グループとしての統一したイメージを作れないまま人気は失速し1972年10月に実質上解散。しかし平成に入ると「ジャッキー吉川とニューブルーコメッツ」に改称して活動している。
メンバーの井上が2000年に死去したのを期に2002年にグループサウンズ時代のメンバーでも本格的に再結成し現在に至っている。
オックスについて
オックスといえばグループサウンズ全盛期に現れ、グループサウンズを崩壊させたバンドと言われている。
オックスは1968年に「ガールフレンド」でデビューし、その後「ダンシングセブンティーン」「スワンの涙」「僕は燃えてる」などのヒット曲を飛ばし、そのルックスと歌声から多くの少女ファンが夢中になった。
オックスは42年9月にキングスを脱退した福井利男と岩田裕二が大阪で酒場の経営者清水芳夫の手を借りて同年12月に結成したバンド。
当初にメンバーの出入りがあったものの翌年の1月にはメンバーが固まった。オックスの地元での人気は上々でスプートニクスの前座を勤めたあと、GAP(のちホリプロ)にスカウトされ上京した。
オックスはステージ上で喧嘩をしたり楽器を壊すパフォーマンスをしたり、有名な失神もこの頃にはやっていた。
オックスはオルガンの赤松愛の中性的な魅力が人気の原動力となっていたが、フロント陣のアイドルっぽさでタイガース、テンプターズに次ぐ第3の人気バンドとして認知されていた。
しかしその過激なステージングが教育委員会などの格好の目標となり、特に失神は社会問題になってしまった。
オックスは人気絶頂の44年、赤松愛が芸能界に飽き「ジョンレノンの弟子になる」といって脱退(笑)、1971年に解散。
オックスには作曲家筒美京平と作詞家橋本淳のコンビによる楽曲が多い。
解散の後、野口は演歌歌手に、田浦は俳優に、福井と岡田はピープルに参加した。
オックスで一番喧嘩っ早かったのは赤松愛らしいが、日本一喧嘩の強いバンドとしても有名。
和田アキ子がこのバンドのボディーガードのようなことをしていたというが、日本一喧嘩の強いバンドのボディーガードっていったいなんだ??
ザ・タイガースについて
ザ・タイガースの原型は沢田研二を除く4人が1965年に京都で結成したサリーとプレイボーイズで、
その後当時サンダースで活動していた沢田研二が加入しバンド名もファニーズに。
当時メンバー全員がファンクラブに加入していたザ・スパイダースの田邊昭知から、上京するならスパイダクション(現田辺エージェンシー)に来ないかといわれるが、大阪のジャズ喫茶ナンバ一番で共演したブルージーンズの内田裕也からナベプロのオーディションを受けるよう勧められこれに応じる。
1966年10月9日にナンバ一番で行われたオーディションに合格し11月9日新幹線で上京。11月15日、初出演のテレビ番組ザ・ヒットパレード収録の日、関西出身ということからすぎやまこういちによってバンド名をザ・タイガースに変更させられる。
ザ・タイガースは初のテレビ出演で、PAUL REVERE & THE RAIDERSの「KICKS」をカヴァー。岸部の父の友人が録画したこのときの映像は岸部の友人の息子が保管していることがTVで判明した。
ザ・タイガースは1967年2月5日発売のシングル「僕のマリー」でデビュー。この頃、メンバーのニックネームが決まり、沢田研二は女優ジュリー・アンドリュースのファンだったからジュリー、岸部修三(現・岸部一徳)は背が高かったことからビートルズのシングルのっぽのサリーにかけてサリー、森本太郎は本名からタロー、加橋かつみはトッポジージョに似ていることからトッポ、瞳みのるはキューピーに似ていることからピーと呼ばれた。
ザ・タイガースはシングル「シーサイドバウンド」「モナリザの微笑」で一気にブレイクし、折りからのグループサウンズブームも相まって、ザ・タイガースは瞬く間にトップアイドルとなる。
ザ・タイガースの中でも当時の男性歌手としては日本人離れした大きな瞳と端正かつ甘美なルックスの沢田が10代少女に熱狂的な人気を博しそれが今のジャニーズ事務所所属タレントのはしりであるとも言える。
ザ・タイガースデビュー当時にもジャニーズはあったが、当時のジャニーズはみな短髪で体格も良くグループサウンズブーム以前の加山雄三に代表されるいわば男臭さを売りにしていた。グループサウンズブームに対しジャニーズ事務所は、ザ・タイガースやザ・テンプターズの熱狂的人気に対抗すべく、長髪に中性的な甘い顔立ちの男性アイドルグループを売り出しにかかる。これがフォーリーブスであり、その路線が郷ひろみやたのきんトリオ、シブがき隊などを経て、現在のSMAPやTOKIO、V6などへと継承されてゆく。社長のジャニー喜多川も、現在のアイドル売り出し戦術の根底を、ザ・タイガース売り出し戦術から学んだことを認めている。
ザ・タイガースは1968年8月12日に日本初のスタジアム・ライブとなるザ・タイガース・ショーを後楽園球場で開催。11月25日にはヒューマン・ルネッサンスを発売し、社会現象とまでいわれた圧倒的な人気の中、ザ・タイガースはグループサウンズブームの頂点に立つ。
グループサウンズのファンクラブは親衛隊と呼ばれたが、ザ・タイガース親衛隊の数は断トツだった。また追っかけと呼ばれる新しいファン行動も出現した。
GSブームも退潮の兆しを見せ始めるなか、沢田が初のソロアルバムJULIE発売。メンバーのソロ活動も増えだした1970年12月7日にザ・タイガースは解散を表明した。
翌1971年1月24日、日本武道館におけるザ・タイガース ビューティフルコンサートを事実上の解散コンサートとしてザ・タイガースは解散した。